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西太后―大清帝国最後の光芒 (中公新書) 新書 – 2005/9

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西太后―大清帝国最後の光芒 (中公新書) 新書 – 2005/9

西太后―大清帝国最後の光芒 (中公新書)

あらすじ

内憂外患にあえぐ落日の清朝にあって、ひときわ強い輝きを放った一代の女傑、西太后。わが子同治帝、甥の光緒帝の「帝母」として国政を左右し、死に際してなお、幼い溥儀を皇太子に指名した。その治世は半世紀もの長きにわたる。中級官僚の家に生まれ、十八歳で後宮に入った娘は、いかにしてカリスマ的支配を確立するに至ったか。男性権力者とは異なる、彼女の野望の本質とは何か。「稀代の悪女」のイメージを覆す力作評伝。

目次

第1章 清朝という時代
第2章 紫禁城の壁の中
第3章 戦争と政変
第4章 垂簾聴政の光と影
第5章 西太后と二人の皇帝
第6章 最後の十年

書籍情報

西太后―大清帝国最後の光芒 (中公新書) 新書 – 2005/9

加藤 徹 (著)
新書: 284ページ
出版社: 中央公論新社 (2005/09)
ISBN-10: 4121018125
ISBN-13: 978-4121018120
発売日: 2005/09
商品パッケージの寸法: 17.2 x 11 x 1.6 cm

著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)

加藤/徹
1963年(昭和38年)、東京都に生まれる。東京大学文学部中国語中国文学科卒業。同大学院人文科学研究科博士課程単位取得満期退学。90~91年、中国政府奨学金高級進修生として北京大学中文系に留学。広島大学総合科学部専任講師を経て、現在、同助教授。専攻、中国文学。『京劇』で第24回サントリー学芸賞(芸術・文学部門)受賞(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

レビュー

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関連書籍

貝と羊の中国人 (新潮新書) 新書 – 2006/6/16

加藤 徹 (著)

あらすじ

財、貨、賭、買…。義、美、善、養…。貝のつく漢字と羊のつく漢字から、中国人の深層が垣間見える。多神教的で有形の財貨を好んだ殷人の貝の文化。一神教的で無形の主義を重んじた周人の羊の文化。「ホンネ」と「タテマエ」を巧みに使い分ける中国人の祖型は、三千年前の殷周革命にあった。漢字、語法、流民、人口、英雄、領土、国名など、あらゆる角度から、斬新かつ大胆な切り口で、中国と中国人の本質に迫る。
抜粋

漢字の字源と国民性
漢字の歴史は長い。現在確認されている限りでは、漢字の最古の遺物は紀元前十四世紀の「甲骨文字」である。将来的には、もっと古い時代の漢字の遺物も、見つかるかもしれない。
ふだん私たちが何気なく使っている漢字にも、古代中国人の世界観が、タイムカプセルのようにつまっている。
例えば、「県」「民」「祭」といった漢字の字源もそうである。
「県」の字源は「首」を上下さかさまにした形で、原義は「切断した首を逆さまにつりさげる」。つりさげる意の「懸」も同系。
「民」の字源は「針で目をつぶされた奴隷」。「民」の最後の一画の斜めの線は、太古の象形文字で描かれた「ひとみを突く針」の名残である。目をつむって寝る意味の「眠」も同系。
「祭」の字源は、肉のヨコに手(又)をそえ、その下に「示」を書いた会意文字。原義は「犠牲の肉を手にもって神霊に捧げる」。下部の「示」は、肉からしたたり流れる血とも、祭壇のテーブルの形とも解釈されている。
筆者は町なかで「県民祭」という看板を見ると、つい妙なイメージを思い浮かべ、思わずニヤリと笑ってしまう。
字源の知識はトリビアだが、現代社会を反省する材料としても役立つ。
「民」の字源が「針で目をつぶされた奴隷」であることは、示唆的である。西洋では、ギリシャの昔から民主主義があった。東洋社会はどうだろう。かつて孔子(前五五一ごろ~前四七九)は、
「民は之に由らしむべし、之を知らしむべからず」(『論語』泰伯第八)
と言った。古来、東洋の統治者は、民の耳目を覆って真実を隠すことに腐心してきた。今日、日本の隣には「人民共和国」を名乗る国が二つもある。その「民」の意味は……など、一つの字源からも、さまざまな連想の輪が広がる。
俗に「三つ子の魂、百まで」と言う。漢字の祖型と、中国文明の原型は、同じころにできた。漢字の字源には、中国人の「三つ子の魂」がこめられているのかもしれない。

二種類の祖先
人は、父と母の出会いから生まれる。民族の誕生も同じである。世界の文明国の歴史をさかのぼると、大昔に二つの異質な集団がぶつかりあったのが起源、という例が多い。
インド人の祖型は、三千五百年前に、先住民のドラヴィダ人と、征服者のアーリア人が衝突して形成された。日本人の祖型は、二千数百年前に、在来系の縄文人と、渡来系の弥生人が混淆して誕生した。イギリス人の祖型は、千五百年前に、外来のアングロ・サクソン人が、在来のケルト人を征服することで生まれた。
中国人(漢民族)の祖型は、いまから三千年前、「殷」と「周」という二つの民族集団がぶつかりあってできた。ちなみに、現在、中国で多数を占める民族を、「漢民族」と呼ぶ(中国語では「漢族」)。「漢民族」という名称と概念は近代に入って生まれたものだが、これにあたる人々は昔からいた(近代以前は「漢」「漢人」などと言った)。漢民族とは、中国語(中国人は「漢語」と呼ぶ)を母語とし、漢民族の文化や価値観をもつ人々の集団である。異民族でも、漢民族の伝統文化を受け入れて同化すれば、漢民族と見なされた。
司馬遷の『史記』など、漢文の古典にのせる伝説によれば、殷の最後の王・紂王は、とんでもない暴君だった。彼は「酒池肉林」の贅沢をして国を傾け、自分を諫めた大臣を残酷な方法で処刑した。周の武王は、天下の諸侯をあつめて紂王と戦ってこれを倒し、周王朝を打ち立てた。これを「殷周革命(殷周易姓革命)」という。
殷は、長いあいだ伝説の王朝であった。しかし十九世紀末に甲骨文字が発見され、一九二八年から殷王朝の都市の遺跡(殷墟・河南省安陽)が発掘されたことで、殷は歴史上実在したことが確認された。
三千年ぶりに土のなかから出てきた遺物が語る「殷周革命」の真実は、古い伝説とは大違いであった。実在した殷は、東方系の農耕民族で、当時としては高度な文明を誇った。殷の最後の王・帝辛(伝説のいわゆる紂王)は暴君ではなく、祭祀を熱心にとり行った敬虔な人物だった。当時まだ金属貨幣は存在せず、交易の貨幣として子安貝が使われた。殷は、子安貝を求めて、東の沿海部の人方と呼ばれる民族を攻略した。その背後を、西方系の遊牧民族の血を引く周につかれ、滅亡した。征服者である周人は、自分たちに都合のよい勧善懲悪的な伝説を創り、後世に伝えた。
遺跡から見えてきた真実の歴史は、右のようなものである。
殷周革命の年代については、紀元前一〇二七年説をはじめ諸説があり、いまだ定説はない。
近年の歴史研究の進歩により、今から三千年前の殷周革命が、日本人の誕生にも大きな影響を与えたこともわかってきた。二〇〇三年、日本の国立歴史民俗博物館(千葉県佐倉市)は、北九州の弥生時代の遺物の年代を、放射性炭素年代測定法をつかって調査した。その結果、弥生時代の開始が従来の定説より五百年もさかのぼり、北九州では紀元前十世紀にすでに水田稲作が行われていたことが判明した。
殷周革命の激動によって、東アジアの諸民族が玉突きのように動き、それが北九州へ水稲稲作をもたらす契機となった、ということらしい。
現在でも中国大陸の動きは、黄砂、大気汚染、景気動向反日デモなど、日本列島にインパクトを与えつづけている。そうした宿命の歴史は、三千年前までさかのぼる。反中とか親中とかいう前に、まず、中国についてよく知ることが必要であろう。

八百万の神と至高の神
現代日本人の祖型は、先住民だった縄文人と、渡来系の弥生人が混血してできた。これは、古代人の人骨や現代日本人の遺伝子を調査してわかった科学的事実である。この事実をもとに、一九九〇年代には「縄文顔」とか「弥生顔」という語が流行した。
古事記』と『日本書紀』が伝えるところによると、天皇家の祖先はもともと南九州に住んでいたが、神武天皇のとき東に進み、近畿地方の先住民の首長長髄彦を征服した。神武天皇は稲作民の首長だったが、長髄彦はその名のとおり縄文系の首長だったらしい。実際、各地の遺跡から出土した縄文人の骨を調査した結果、彼らの脛が相対的に長かったことも、今日ではわかっている。
神武天皇が実在したか否かはさておき、神武東征伝説には、弥生系と縄文系の出会い、という太古の記憶が反映されている可能性がある。
一説によると「日本」という国号の語源は、神武天皇長髄彦の軍勢が最初に衝突した地名「クサカ」にちなむという(今日の東大阪市日下町)。漢字では「孔舎衙」「草香」「日下」など、いろいろと書く。昔の和歌では、「日下のクサカ」と、「日下」を「クサカ」の枕詞として使った。そのため「日下」と書いて「クサカ」と訓むようになった。この「日下」を「日本」と書いたのが、日本という国号の起源になった、という説もある。
話を中国人にもどすと、彼らの先祖もまた、大昔に、東西の異質の種族の衝突から生まれた。三千年前の東方系の殷と、西方系の周の気質の違いは、現代中国人にも受け継がれている。
ここで仮に、殷人的な気質を「貝の文化」、周人的な気質を「羊の文化」と呼ぶことにしよう。
殷人の本拠地は、豊かな東方の地だった。彼らは、目に見える財貨を重んじた。まだ金属貨幣が存在しなかった当時、貨幣として使われていたのは、遠い海から運ばれてきた「子安貝」だった。有形の物財にかかわる漢字、寶(宝の旧字体)、財、費、貢、貨、貪、販、貧、貴、貸、貰、貯、貿、買、資、賃、賜、質、賞、賠、賦、賭、贅、贖……などに「貝」が含まれるのは、殷人の気質の名残である。
殷の宗教は多神教で、神々は人間的だった。日本の俗諺で「御神酒あがらぬ神は無し」と言う。殷の「八百万の神々」も、酒やごちそうなど、物質的な供え物を好んだ。
殷人は、自分たちの王朝を「商」と呼んだ。三千年前、殷王朝が周によって滅ぼされると、殷人は土地を奪われて亡国の民となり、いわば古代中国版ユダヤ人となった。
「商人」と自称していた殷人は、各地に散ったあとも連絡を取り合い、物財をやりとりすることを、あらたな生業とした。これが「商人」「商業」の語源である。欧州のユダヤ人が学芸でも成功したように、殷人の子孫も学者を輩出した。紀元前六世紀の孔子も、前四世紀の荘子も、殷人の子孫であった。
いっぽう周人の先祖は、中国西北部遊牧民族と縁が深く、血も気質も、遊牧民族的なところがあった。殷人が貝と縁が深かったように、周人は羊と縁が深かった。周の武王をたすけ、殷周革命の立役者となった周の太公望呂尚の姓は、「姜」である。字形も字音も「羊」と通ずる。周人にとって、羊こそが宝であった。
一般に、農耕民族は、地面から雑草や樹木や虫など生命がどんどん湧いてくる自然環境に住んでいるため、地域密着型の多神教になりやすい。いっぽう、広漠たる大草原や沙漠地帯を移動しながら暮らす遊牧民族は、空から大きな力が降ってくる、という普遍的な一神教をもちやすい。
遊牧民族の血をひく周人は、唯一至高の神である「天」を信じた。天は、イデオロギー的な神であり、物質的な捧げものより、善や義や儀など無形の善行を好む。殷人は、神々を好んで図像に描いたが、周人は、ユダヤ教徒イスラム教徒が唯一神を図像に描かぬのと同様、「天」の姿を絵や彫像にすることはなかった。
旧約聖書』によれば、唯一神は、アベルが供えた羊は嘉納したが、その兄カインが供えた農作物は嘉納しなかった(「創世記」第四章)。周人も、「天」を祀る儀礼においては、羊を犠牲にして供えた。殷の神々は、酒や肉のごちそうで機嫌をとり、「買収」することができた。しかし周人の「天」は、羊を捧げるだけでは不十分だった。善行や儀礼など、無形の「よいこと」をともなわねば、「天」は嘉納してくれなかった。義、美、善、祥、養、儀、犠、議、羨……など、無形の「よいこと」にかかわる漢字に「羊」が含まれるのは、イデオロギー的な至高の神「天」をまつった周人の気質の名残である。
ISBN-10: 4106101696

李鴻章――東アジアの近代 (岩波新書) 新書 – 2011/11/19

岡本 隆司 (著)

あらすじ

近代世界に入る清朝の困難な舵取りをした政治家・李鴻章(一八二三‐一九〇一)。旧式のエリート官僚だった彼は、内乱の平定に貢献して官界最高の実力者に登りつめた。二十年間、「洋務」「海防」を主導して外国列強と渡り合うも、日清戦争で敗北を強いられる。その生涯を一九世紀・清朝末期という動乱の時代とともに描き出す比類なき評伝。
ISBN-10: 4004313406

漢文の素養 誰が日本文化をつくったのか? (光文社新書) 新書 – 2006/2/16

加藤 徹 (著)

あらすじ

かつて漢文は、東アジアのエスペラントであり、日本人の教養の大動脈であった。古代からの日本の歴史を「漢字」「漢文」からひもとくことで、日本人が何を思い、どんな試みの果てに、この国が築かれてきたのかが明らかになってくる。日本人にとってまだ漢文が身近だったころ、漢文の力は政治・外交にどのように利用されたのか?彼らは、漢文にどんな知性や思いを込めたのか?―日本の発展の原動力となり、その文化・政治力を支えた「漢文の素養」をもう一度見直し、日本文化の豊かな可能性を提言する。
ISBN-10: 4334033423

紫禁城の栄光―明・清全史 (講談社学術文庫) 文庫 – 2006/10/11

岡田 英弘 (著), 神田 信夫 (著), 松村 潤 (著)

あらすじ

14世紀後半から19世紀初頭、アジア大編成時代を描く
「農耕帝国」と「遊牧帝国」が融合して、多民族・巨大国家「中国」が誕生した

偉容を誇る中華皇帝の王城=紫禁城は、モンゴル人が建設し、満洲人が遺したものである。遊牧帝国と農耕帝国の合体が生み出した巨大な多民族国家・中国。漢人たちが漢文化を育んだ2大河の流域「シナ」は、満洲・モンゴル・チベット・新疆の周辺をどのように統一したのか?14世紀後半の元の北帰と明の興起から、清の落日が始まる19世紀初頭まで、アジア激動の450年を描く。

数多ある類書の中で際立つ本書の特徴は、その視点・論理の明晰さと独創性とにある。本書の基本的視座は、漢人が主に住まい漢文化を育んできた「シナ」と、それとは別の歩みをたどってきた満洲・モンゴル・チベット・新疆をも包含する「中国」とを自覚的に区別し、この時代の歴史を「シナから中国へ」の展開として捉えるという、ユニークかつ核心を衝いたものである。このために、シナ史中心の類書とは一線を劃する一方、独立した民族史・地域史としてのモンゴル史・チベット史などとも異なって、これらを1つに融合した脈絡ある歴史として叙述することに成功している。――<「学術文庫版まえがき」より>
ISBN-10: 4061597841

科挙―中国の試験地獄 (中公新書 (15)) 新書 – 1963/5

宮崎 市定 (著)

あらすじ

ISBN-10: 4121000153

雍正帝―中国の独裁君主 (中公文庫) 文庫 – 1996/5/18

宮崎 市定 (著)

あらすじ

官吏が本当に政治を真面目にやろうと思えば、おたがいの交際などに費す時間も費用も出る筈がない。ところが…(「本文」より)。文武の功績多かった康煕帝61年の治世を引継いだ第五代雍正帝は、独得の奏摺政治をあみだし中国の独裁君主として徹底した独裁体制を確立してゆく。
ISBN-10: 4122026024

さいごに

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